「貢献」
という言葉を聞いてどんなイメージが思い浮かぶだろうか。
・ボランティアをしている人々
・多額の寄付をして表彰されている人
・医者や看護師などのエッセンシャルワーカー
・国を守ってくれている自衛隊員
・会社に多くの利益を残す優秀な社員
・ベストセラーの本を書いている人
・「大谷は投手では7回無失点、打者としては4打数3安打1本塁打で勝利に貢献した」
目に見えやすかったり、想像しやすい貢献のカタチというのはある程度パターンがある。
そのパターンがあるからこそ、翻って貢献している感覚を、僕は持てなかった。
社会に、他人に必要とされるには、何か価値のあるものを提供しなくてはならない。
それは多くの場合、仕事を通じてだったり、上で書いたようなボランティアや寄付といった、社会的に良しとされている活動を通じてという場合がほとんどだ。
実際、上に書いた例はその2パターンのどちらかである。
僕の仕事は、トレードだ。
少し前までは、アフィリエイトが仕事だった。
そのさらに前は、実家でニートをしていたり、フリーターでテレアポ営業をしていた時代もあった。
いずれの時期についても、仕事や社会的な活動という面において、
「自分は何かに貢献している」
という感覚をずっと持てずにいた。
嫌われる勇気
『嫌われる勇気』というベストセラーになった本の中に、この貢献感に関する記載がある。
この本によれば、貢献感とはあくまで主観的なもので、自分自身が何かに貢献したという感覚を持てればそれでいいのだそうだ。
きっとこれは、少なくとも人間の心にとって有益な考え方だと思う。
自分が貢献感を持てればいい。
極論になってしまうが、猟奇事件を起こして逮捕された犯罪者であっても、獄中で自分は良いことをしたと本当に感じているのであれば、それは貢献を感じているということになる。
もちろん、それを世間や他人がどう判断するのかは別問題だが。
積み重ねる
もちろん上記の例はバカバカしいほど極端だ。
だが、