だが、貢献感を誰もが、いついかなるときでも論理的には感じられるというのは、希望でもある。
普通はそうはいかないだろうが。
おそらく、一般的には、貢献感というのは突然降って湧いてくるものではなく、日々の生活の中での自分のやってきたことの積み重ねで自然と感じるようになっていくものだと思う。
逆にこの段階的な感覚がなく、天啓のように降ってきた貢献感というのは、個人的には少し怖くもある。
先ほど述べた、猟奇事件の犯人でも、獄中で貢献感を感じられるという例えは、希望であると同時にそれは少し不気味でもある。
やはりそれは、過去とのつながりがないからだ。
ずっと、積み重ねてやってきたものがないのに、いきなりその感覚を得ようというのは虫が良すぎるのではないだろうか。(もしかしたら、この意見をアドラーもしくはアドラー心理学の学者は否定するのかもしれないが)
まあこれはあくまで個人的な感覚なので、異論を唱えようというものではない。
少なくとも自分は、何か貢献感を感じられるまで、いくばくかの時間がかかるのが普通だと思っている。
トレードの先に
そう考えたときに、トレードをずっと続けていった先に、貢献感を自然と感じられるようになる日は来るのだろうか。
あくまで僕の知っている範囲だが、あまりキレイではない稼ぎ方をしている人は、そのビジネスそのもので貢献感を感じているというよりも、寄付だったり、他人に何か役立つことを教えることだったり、NPOを立ち上げたり、稼いだお金を使って比較的感謝されやすいことをすることによって、貢献感を得ているように見える。
もちろんそれは、ずっと家の中に引きこもってSNSなどの情報発信をせずに暮らしている人と接点を持っていないから、あくまで目立つ人を見たり、少ない知り合いや知り合いのからの又聞きで得た知見ではあるが。だから今書いたことが真実かどうかは知らない。
何にせよ、トレードを続けた先に、シンプルに何か別の、質的な変化があると期待するのは危険だと思っている。それは果のない海を潜っていくような行為に僕には見える。
ここは先人に習って、トレードとは別のところに救いを見つけるのが妥当ではないだろうか。
ひとつそこにたどり着くまでにやれることがあるとすれば、求められる人になることかもしれない。
話していることや書いていることに価値を勝手に持たれるような人になることかもしれない。
そのために、このブログを書いている面はある。
トレードだけでは満たせない、ある種贅沢とも言える実感を味わうために。